サラリーマンはやる気搾取装置だと思う
サラリーマンについて考えてみた。
本当は頑張りたいのに、頑張れば頑張るほど努力の無意味さに気付かされてしまう。
そうなると本気でやりたいのに、本気でやれない。
熱中して仕事をするなんてことは程遠く、上手いことやっているふうに見せかける事だけに意識が向いてしまっている。
やってられない。
でももう多分どこでも同じようなもんなんじゃないかと、諦めている自分がいる。
これからどうしていこうか、今本気で悩んでいる所だ。
●最初の職場で心が折れた
僕が初めて就職したときは、それはもうやる気満々で、なんならこれからこの業界のトップになれるくらいまで努力してやる!
そう思っていた。
努力をすれば報われる思考(努力信仰)を心の底から信じて疑わず、自分の生きて来た証のようなものをここで残したいと思ったものだった。
それから多分3ヶ月もしないうちに、その夢は朽ちていった。
だってよ、サラリーマンってアホらしいじゃん。
・バカみたいなサービス残業。
・早朝出勤(もちろんサービス)への圧力。
・パワハラ上司による周りへの悪口。暇かよ。
・ろくに詰めきれていない企画を実行する立場。
・そのくせ、誰も達成できない意識高過ぎノルマ。
・勘違いしている役員共。
そのせいで心は完全に折れてしまった。
「どうやって自分を守ろうか」とばかり考えていた。
仕事に熱を入れる方向よりも、「どうやってあいつを黙らせるかとか」、「どうやって避けて通ろうか」とか、そういう方向にばかり考えが及んでしまう。
そんな職場で、いい結果が出るはずもない。
結局僕は1年経たずにその会社を辞めた。
●2つめの職場で思った「向いてないかも」
今いる次の会社もまあまろくでもない。
・有休を使う度、ネチネチ攻撃してくる
・何なら、有給取っただけで怒鳴られている
・頑張っているのに怒られる
・その癖、ずっと遊んでいて残業代稼ぎしている歳の近い奴は放置
・その仕事しない奴の負担が、こちらに回ってくる
・でもサボってるとほざいてくる、パワハラ上司
、、、、
え!?
仕事せんほうが得やん!!!
そう思ってしまった。
馬鹿らしい。
なんで仕事しない遊んでばかりいるやつの尻拭いを、こちらがしないといけないのか。
俺を怒るのなら、まずはそいつからだろ?
一番仕事していない奴にも言えよ、それ。
頭おかしいんちゃう?
確かに、サラリーマンは自分の頑張りと給料が一致しないというのもわかる。
自分が会社に守られている、それ位は我慢したほうがいいのもわかる。
他の会社でも同じようなことが起きているので、我慢するのが日本人なのはわかっている。
でも、そろそろ限界だ。
こっちが仕事しないアホの仕事を死ぬ気で頑張っている横で、当事者のアホはのんきに遊び続けている。
仕事に熱中したいのに、隣で遊ばれるストレスが腹の中でずっと煮えくり返っている。
それに加えて、パワハラ上司の執拗な監視やサボっている攻撃が飛んでくる。
いやいや、どんな罰ゲームよ。
そんな職場にこれ以上自分が尽くす意味が無くなってしまった。
もう辞めよう。
自分には無理だ。
ストレスで頭がおかしくなりそうだ。
●僕はそろそろ辞めようと思う。
毎日辞めたいと思っている。
パフォーマンスはガタ落ちだ。
でも辞めたときの恐怖が勝ってしまい、まだ辞めていない。
まだ辞めてはいないのだけど、出来るだけ早く辞めようかと思っている。
サラリーマン初期の事を思い出すと、少しだけ社会に対する希望を持っていたことを今でも思い出す。
けれど今はもう、社会から「いかに攻撃されないようにするか、むしろ自分が搾取するか」とかしか考えられなくなっている。
こうやって皆荒れていくのかな?
希望を持って仕事ができたらどんなに楽しいだろうか。
仕事に対するコントロール感を持っている人には、下っ端の人間の気持ちには鈍感になってしまうんだろうか?
誰も楽しくない職場ばかり増えていってるんじゃないか?
もっと仕事に熱中したい。
人間関係で悩みたくない。
サラリーマンでは無理なのかな。
そんな事を考えていました。
自分から動かないと何もない変わらない。
こんな職場で、自分をこれ以上駄目にしてしまっては勿体無い。
少しずつ始めていこう。
自分の人生のコントロール感だけは持ち続けたいから。
副業禁止なクソ職場
前回、僕の職場が糞すぎて辞めたい話をした。
まぁ僕がサラリーマンに向いてな無いってだけの話なんだけどね。
今回はもう一つ、自分の職場のクソさをアピールしたいと思う。
ズバリ、「副業禁止!!」
もうね、がっかりしたよ。
副業禁止できるほど、おまえの会社は社員に給料払ってねーだろ?
役員共は「お前らは払われている給料分の働きをしているのか考えてくれ」みたいな話をしょっちゅうしてくるが、僕からしたらあんたらのほうが何もしてないんじゃないかと思う。
ホントに、人のやる気を削ぐのが上手い連中だなと、つくづく頭が下がる。
「やる気削ぎマン」で活躍したほうが売れるんじゃないかな?
とりあえず、副業禁止がどれくらい僕らに悪影響を与えるのか考えてみた。
●人としての魅力
副業でしっかり稼いでいる人と比べたら、人生に対する積極性が遥かに違うと思う。
そりゃ居るだけで時間で給料が出てしまったら誰だってやる気なくなるよね。
どこか隣のお国と同じ感じだよね。
そんな社員ばかりにしていいのか?と問いかけたい。
副業禁止って何を目指してそうしているんだろうね。
誰も得しないんじゃないかな?
●残業代稼ぎ
副業できないとなると、仕事からの収入が全てとなる。
そこで現れるのが、「残業代稼ぎ野郎」。
うちにもいる。
昼間遊んでいて、夕方からちょっとやる気出してくる。割と目障りな奴ら。
正直その存在にイライラしているんだけど、副業ができるのなら、そいつらも、もしかしたら僕のストレスも、ちょっとは減るのかもしれない。
副業って最高じゃん?
なんで禁止する必要があるのかな?と思う。
●いや、わかるようでわからん!!
まあ副業されて本業に支障がでたら、と考えるとわからんでもない。
仕事とは全く違った分野で働くことになるわけで、休日出勤とかも割と強制であるので、ものによっては副業ができない。
でも空き時間でできるし副業もあるし、本業に影響するようなやつなら、今でも本業に影響が出るほど遊んだりしているんじゃないかな?
副業のせいにしちゃだめな気がする。
うーーん、わかるようでやっぱりわからん!
結論は出ない!
今回はこう愚痴ばかりになってしまいましたが、
とりあえずは、副業したい!
っていう今日この頃でしたー。
考えることを知る代償
自分は昔から考える性格だったか?
違う
結構「のほほん」としているタイプだった。
ストレスを感じない術みたいなものがあった。
人の話を「心の芯」で受け止めないことだ。
まあ自然とやっていた事なので、やっている感も無かったくせに、割とうまくいっていた。
でもそれが最近になって無理になってきている。
理由は人間関係のせいだろう、と思う。
嫌でも自分の事を考えなければいけない。
考え抜いて仕事に対する姿勢や、生き方に対する姿勢を改めないとこの問題は解決しないのだろうから。
嫌でも自分に向き合う必要があった。
その辺りから、自分のことをくよくよ悩むようになったのだろうと思う。
●辞めれば?
そんな職場なのに、なぜやめないのか自分でも不思議なんだけれど、やっぱり今メリットとデメリットを天秤にかけた結果、無理だよねという結論に落ち着く。
・本当は自分で稼いでみたい。
・けれど一度やめたら収入が無くなる。
・家族がヤバイだろうな。
そう思うと仕事をやめる事ができない。
一人暮らしなら辞めていたかもしれない。
でも、家族の幸せを考えた時に、自分だけの心の問題を理由に家族を道連れにして良いものかどうか非常に迷う。
それは強さと呼べるものかも怪しいくらいの、保守的であるだけだと思う。
このままでも将来、案外大丈夫になっているかも。
やっていれば行けるかもしれない。
そういう安易な考えが頭をよぎる。
投資では最悪のパターンなのだけれど、今の職場に居るのが、今の所一番マシな気がしている。
(ここで大丈夫になるのは、もしかしたら感情が鈍化しているだけかもしれないが)
●良い事もある
考えるようになってすべてが駄目になったわけではない。良い事もあると思う。
確かに、心的危険性がどれほど脳にダメージを与えるかということも、科学的に証明されつつある。
そんな中で、うつに近いくらいの人間関係に悩まされる体験をすることに意味があるなんて考え方もしたくはない。
極度の疲労がウイルスによってうつの危険性を高めてしまうことは、割と確からしい話だった。
だから、本当にいいことは無いのだけど、敢えて言うならば、という話である。
・色々考えるようになった
・新しい本を読むようになった
・弱者の気持ちが分かる
・努力の虚しさを知った
恐らく、人生うまく行っている「ウェーイ」組には縁もない事だろう。
げど、本当に悩んだおかげか、色んなことを考えることができるようになった。
今まで見てきたものが違って見えた。
自分がいかに強者の立場で世の中で幅を利かせていたのかを身にしみてわかった。
でもそろそろ思う。
もういい。
もういいから、ちょっとだけの楽にさせてくれと。
バランスが悪すぎて、世の中から孤立しそうな自分がいる。
周りの人間をもっと信頼したいのにできない自分がいる。
昔は割と周りに対してニコニコできたのに、今では警戒心が先走ってしまって怖い顔をしてしまう。
嫌そうなテンションで人を迎えてしまう。
その不甲斐ない自分に対して、やっぱいかんなーと思って、自分のダメさを確認してしまう。
そういう無駄なループの外のほうが多い聞いので、そろそろ人間関係で悩むのをやめたい。
そう思う今日この頃でした。
あ、家で一人のときは最高に「のほほん」状態だから一応健康だよ(^O^)
すべてを投げ出したい時
みなさんは最近、自暴自棄になったことはありますか?
もうええわこんな人生!って思ってしまったことはありますか?
僕にはちょっとだけありました。
それがまた、自分でも意外だった所だったので、自分でもびっくりしたし、心を保つのに結構苦労しました。
その事について少しだけ書いていきたいと思います。
●あ、もうどうでもいいかも。
いつも悩んでいるとはいえ僕の場合、
心の「芯」の部分は案外守られていたりします。
例え上司に見捨てられても、
職場で居心地が悪くなっても、
友達と喧嘩をしても、
自暴自棄になったりすべてを投げ出したいと思うことは無かった。
どんな暴言を吐かれたって同じだっでした。
確かに自責グセが有るので、「ごめんなさい」「僕が本当に悪かった」と謝って相手をつけあがらせて関係が悪化することは多々あった。
でも、そのときでも自分の心が侵されたことは無かった気がする。
それがこの間、ひっくり返されました。
しかも他愛のない事で。
以下がその内容である。
〜〜〜〜〜〜
自分が家事を忘れていて、嫁が不機嫌になっていた。
近づくと明らかに不機嫌な様子。
忘れていた家事の事を謝ったが、ずっと怒っている。
ずっーと怒っている。
〜〜〜〜〜〜
それくらいのことだった。
普通なら僕の心は「まあええか」とか「しゃあないか」位で済みそうな内容だと思う。
けれどこのときは違った。
何か世界に取り残されたような、
自分だけがこの世界に一人だけ置いていかれたような、
自分の居場所がどこにもない事を突きつけられ、
僕が一人で今ここに立っていることがものすごく危なげで壊れそうな状態であることを知ってしまったのでした。
どうしてだろう?
初めての感覚に戸惑った。
このまま嫁の機嫌が一生治らずに離婚なんてことになったら、僕を包んでいたアイデンティティみたいなものが壊れてしまう。
か弱すぎる一人の孤独な存在でしかない。
今までアイデンティティで繋がっていた周囲の人間も、完全に切り離された存在であることを身を持って感じた。
自分たちが孤独であることは高校生くらいの時からずっと思っては来たけど、ここまで孤独で周りから断絶された経験は初めてだった。
家族が自分と一緒になりすぎたのかもしれない。
自分と家族の境目がなくなり過ぎて鈍感になっていたのかもしれない。
そして、急にその孤独を感じた瞬間に自分の努力みたいなものがちっぽけになっていって、「あ、もうどうでもいいかも」となってしまったのだった。
とりあえずすぐに立て直して、その時は事なきを得たのだけれど、この「もうどうでもいいわ」となった感覚は今でも覚えている。
今まで何の為に頑張っている来たんだろう、と本気で思うようになる。
●どうでもいいわ、の人
この感覚を体感して思った。
世の中の犯罪者って割とこういう気持ちなのかもしれない。
世界に見捨てられて、自分自身が地に足ついてないような、危な気な孤独感。
一人で抱え込むには余りにも空虚すぎて自分のことがどうにでも良くなってしまう。
こんな気持ちに加えて、守るものや持っているものがもう何もないとなると、人は更生とか人の為とかそういう事は考えている場合では無くなるのではないか?
博之さんが「無敵の人」と題したのだけれど、もしかしたら「無敵なだけの人」なのかもしれない。
本当は世界とのつながりを体の底から欲している。
もう泣きないくらいに、誰かどうにかしてと言いたいけど、自分一人しかいない。
そんな中で真面目に生きていくほうが難しいのかなと僕は思った。
僕の場合は時間と嫁の機嫌のおかげで事なきを得たが、解消できなかったときはどうなっていたのだろう。
そう考えるとまた心配で仕方がないが、いま自分の立っている場所が非常に脆いことだけはわかった。
この実は脆い足場を、どうやってもう少しいいものにできるのかを考えていきたい。
このままではおちおち喧嘩もできないではないか。
本当に不便極まりない体になってしまった30歳でした。
人生を信じることから始めよう
少しの事でイライラする自分について考えてみた。
少しでも参考になればと思い、書いていきます。
【出来事】
外に出る用事があって、目的地に7割まで着いた時だった。ガソリンが無いことに気づく。
このままでは作業をして戻ってくるまでに足りるのかどうかわからない。
仕方が無しに、契約しているガソリンスタンドまで戻る。馬鹿馬鹿しい。時間が勿体無いと思う。こういう時間がかなり嫌いだったりする。
そこでイライラしていたときにふと思い出したこと。横断歩道の外国人の記事(ソースはないです、すみません)
そこで、「こういうことか!」と思った。自分は運命のようなものに抗いすぎている。頑張れば何とかなると言う考え方が行き過ぎているのではないかと思った。
【考】
必死に生きるのではなくて、
やっぱりある程度は諦めて身を任せて、自分の人生の不幸の必要性を感じ取るようにしたい。
※
今迄必死に生き過ぎていた。
必死に生きるべきだと思っていた。
時間に追われていて、周りのものが全く見えない人生だった。
そこにも問題があったのかもしれない。
綺麗な雪山に気づかずに滑りに夢中になる様な無神経さが、自分を苦しめてきた。
その無神経さは、人生に対する必死さから、余裕のなさから、周りを見渡せ無くなり、生まれていたのかもしれない。
もっと運命を信じよう。
自分が運命を切り開くという考え方も素敵だけど、僕達は環境にほぼ左右されております、個人が頑張ったところで変わるところも限られている。
だとすれば、緩く、人生を信じよう。
※
勿論、努力するなと言う事ではない。
上手く行かないことに対する必然性を信じようという事だ。
よく僕が間違えがちなのがここで、運命を信じると自分に言い聞かせると、
でもそれは努力を否定することになると思ってしまう。
そうじゃない。
自分努力の範囲を超えた物が人生に置いては多く立ちはだかっており、自分の努力とは無関係にその物語は立ちはだかっている。
だとすれば、無理に努力をするのではなくて、その中で如何に自由に生きるかをメインにしたほうがいい。
努力はする。
けど、自分の手を超えたものに関しては、運命を信じて、これでよかったと思えるような考え方で生きていきたい。
そうしたら、人生にありがとうを言えるような気がする。
アラームをもっと聞きたい
身体のアラームが聞けない理由とは何だろう?
自分という構造について、一番好きな泉谷閑示さんのイメージを使わせてもらった。※1
−−−−−−−
➀ 「頭」は僕達が考える社会的なこと。つまりは無理をしている自分、アラームを切ってしまう自分。
② 対して「身体」「心」はアラーム出す本体。
③ 「身体」「心」は「頭」に訴えかけることができるの。でも僕の頭は、訴えに蓋をして聞かないようにしている。つまりはアラームが聞けない。
−−−−−−−
僕の場合を考えてみた。
※
今迄は、身体は僕の言う事を聞く奴隷でしか無かった。
自分の身体が動かない時は、気力を振り絞ったり、カフェイン等で奮い立たせたりしていた。
本当は「身体」はしんどさを感じているのに。
本当は「心」は辞めたいと訴えているのに。
それが、「身体」「心」との断絶だったのだと思う。
自分の身体は、自分の言う事を聞くべきだと、意識してはいなかったが、暗に思っていたのだと思う。
そうじゃない。
本当の強さは、自分との対話を通し、理解したあとに生まれてくる。
自分の強さとは、無茶な努力で何かを後付していくものでなくて、自分の中にある物を丁寧に使っていく事だ。
※
じゃあどうやって聞くのか、
それらはさっき自分のイメージの中で、「身体」「心」が、他者のようなものであると認識する。
「頭」が、「身体」「心」を労ってあげる。
僕が今の所しっくり来ている方法は以下の通り。
~~~~~
他の愛しい物を愛でるように、赤ちゃんの世話をするように、自分の「身体」「心」を観察して労る。
言う事を聞く便利なものではなくて、一つのの意思を持った、別のもの(別の人格)だと考えてみる。※2
そうすると言うことを聞かないのは当たり前。
何がなんでも言うことを聞かせようという気が薄らいでくる。
~~~~~
自分は思った程に自分じゃない。
そう考えると、今までとは違う考え方が浮かんでいる自分に気がついた。
目が覚めるほどではないが、じんわりとその違いは感じている。
そうやって、自分の心に寄り添うこと、続けていきたいと思う。
本当の自分の欲しているものを丁寧に探していきたい。
まだまだ時間は掛かりそうだ。
【参考文献】
※1「うつ」の効用 泉谷 閑示
※2「私」という夢から覚めて、わたしを生きる
中野真作
自分の身体のアラームに耳を傾けよう
前回の「内言」に加えて
「身体のアラーム」にも耳を傾けたい。
~~~~~~~~~~~
最近何となくうまく行かない
イライラしてばっかり
自分の周りは本当に恵まれていない
もう人生嫌だなー
そんなこと思っている時に、
自分の身体のアラームの話を知った
~~~~~~~~~~~
いつの日か、僕らは身体が発するアラームを切ってしまったのではないか?
覚えがないだけで、少し思い出してみよう。
・嫌なやつだけど、少しくらい我慢しよう
・ここはもうひと踏ん張りしよう
・しんどいけど、これくらい頑張らなきゃ!
・頑張れ!自分!!!
頑張ることが賞賛され過ぎていて、頑張ることが正義となっている。
結果、次のことが起こる。
➀その度に身体の鳴り響くアラームを全消しして、ひたすらに体に鞭を打って頑張っている。
↓
②そうしていくうちに体がアラーム消しの状態に慣れてしまう。
↓
③気がついた時には、どこかが壊れている状態になる。
僕はこれを何度も経験してしまったクチです。
具体的には
嫌な人間関係に我慢し続ける
嫌味や叱責、罵倒に耐える
(アラームが鳴り続けている)
そうやって耐えることが、頑張ることだと勘違いする
(解決方法が、アラームを止める一択)
そのうち、限界が来て無理になる
人間関係をシャットアウトする
社会や自分に対する自信が無くなる
本当であれば、アラームが鳴っている時に自分の身体に耳を傾けて、寄り添って、解決方法を考えていくべきだった
それをサボっていたが為に、修復不可能なまでに追い込まれ、全てを駄目にしてしまう。
何度も人間不信になりかけました。
皆のようにそこそこ我慢して、社会生活を送れないのは、僕は人間としてどこか欠陥があるのではないか。
何度もそう考えていました。
しかし、もしかしたら原因は自分のアラームを止めすぎていたからかもしれないと思う様になってきました。
嫌な事されも言うのが苦手で、アラームを消し
嫌な事を言われてもニコニコしていて
辞めてほしいと本気で思っても流してしまう
そうやって自分の身体に本気で向き合って居なかった為に起こった事ではないかと。
だから僕は、前回のように「内言」を大事にしたいと思ったし、
今回の「アラーム」も大事にしたいと思った。
まだ、これから検証していく段階ではあるけれど、
少しでも生き方が変わればいいなと思います。
勿論、これもいままで長年放置してきたアラームだから直ぐにキャッチ出来るとは思っていない。
けれど少しずつ、自分の中の何かが変わればいいなと思って、自分のアラームに目を向けていきたいと思います。
【参考文献】
・疲れすぎて眠れぬ夜のために 内田樹
・自分のこころのトリセツ 下園 壮太、柳本 操